203高地

回るの者は気づいている

人は(正直には、『自分は』と書くべきなのに)自己の利益を図る

いくら聖人君子を気取っても、

いくら自己利益を否定しても、

いくら自己性を正当化しても。

それを自覚しているのならば、それはまあ許容できる。

問題は、自分のみは聖域化していること、

問題は、自己欺瞞の危うさに無知なこと、

問題は、あろうことか詭弁を弄すること。

しかし、 「知らぬが仏」と思っているのは、当人だけ。

周囲の者にしてみれば、すぐにも周知のこと。

「知らぬ存ぜぬ」を決め込むにつれ、評価は下がる。

こういうことへの対処、回避は、如何にすればいいのか。

ひとことでの回答があるとは思えない。

しかし、少なくとも言えることは、

こういうことを問題視するだけの

見識があらねばならないということ。

 

 

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